ぬくめる

日記です

ふやけた生活のなかで

①だめだめな自分はどうすれば少しはマシになるか考えなければ、もう他に置いてかれてそのうち寿命がきてひっそり死ぬとか、何の機能もしなくなる、もっと意味がなくなるんじゃないかと思ってしまい、部屋のなかでカーッと頭を働かせる。

外に出られなかった頃は、部屋で黙々と考えていた。「もう自分のこと考えるの飽きた!」と思ったのは、実践をまったくせずにいたからかもしれない。外から得るものがなかった。

外では予想外なことが起きる。意外と楽しかったり、思わぬところで辛かったり厳しさに打ちひしがったりする。考えていたことが通用しなかったりする。

自分と向き合っていると言われることがある。この言葉にデロデロに甘えずに、「自分と向き合うこと」と「単に自分を責めること」の線を引かないといけないと思った。

なんとかやりきってみよう。自分を構いたくなってもやりきることを第一に。いまのわたしは外に踏み出して、頭よりまずは体をめいいっぱい使ってみたほうがいいんじゃないかと思う。ぜったい自分を構いたくなるけど、堪えろ!堪えるんだ!まずはやりきろう、ガタガタでいいから、やりきろう。

 

② 自分は人並みに辛いことを経験しないといけないと思っている。けど人並みに辛いこととは?わたしはわたしで辛いことがあって、あの人はあの人で辛いことがあるだけのことでは?わたしはわたしの辛いことを経験するだけじゃなく、世間一般に辛いことと思われるようなことも経験しないと、自分は人並みに、一人前になれないと思っている。これは「みんなつらいんだから」に繋がることかもしれない。

 

③ 合格をいただいた専門学校から誓約書が届いた。主観的に要約すると、「入学後は、休まないでね。圧をかけているよ。ここにサインして11月中に返送してね」ということだった。念を押された。誓わないといけない人間であるのが恥ずかしかった。誓いを避けてきた。自分を信じるのを避けてきた。そのくせ、いつかの自分は信じる。だから専門学校を受験した。試験の面接では嘘をついた。嘘というよりは理想だった。こうなっていてほしい、こうあってほしいと願いを込めていた。

いまの自分といつかの自分があまりにも離れている。実感がない。実感がないのは危険だ。いつかのことだけ信じられる。いまのわたしの生活をよく知る家族からは、信頼されていると思わない。当たり前です。心配されているのは感じる。

 

④ 「部屋の中だけで考えていることは、外では通用しないことがある」これには実例がある。わたしは家族には言葉で伝えなくとも伝わっているものだと思っていた。怒っていることや、傷ついていること。

母と話した。ぜんぜん伝わっていなかった。母のことなにも知らなかった。家族に本心を話すことも、他愛のない話をすることもしてこなかった。それなのになぜ言葉で伝えなくとも伝わると思っていたのか!言葉で伝えなくとも伝わるのは、対話のもっと先にあるのでは!

 

⑤大丈夫になっても大丈夫だから、安心して大丈夫になろう、大丈夫を目指そう。大丈夫になっても、いまとは違った辛いことや苦しいことに出くわすだろう。大丈夫になっても、わたしは大丈夫じゃなかったころを忘れない、そのころを引き摺りたいだけ引きずる、考え続ける、構いつづける。わたしは大丈夫になりたい。大丈夫になって、あの頃の自分やともだちや誰かに、やさしく声をかけたい。

 

⑥「信じている」とか「頑張れ」という言葉を猛烈に欲していた。頑張ってないようにみえるけど、いつも頑張りたい気持ちがある。そのことを信じてほしかったのだと思う。都合良すぎかもしれないけど!スタンドバイミー!

小学生の頃からお世話になって、高1で行くのをやめた美容室に、久しぶりに行った。ずっと髪を切ってくれていたおっちゃんに、話の流れから、「訳あって高校4年生なんですよ」と言った。そのときは「そうなの!」と驚かれただけだったが、髪を切り終わってお会計が済んだあと、「頑張ってね」と言われた。迷いがある頑張れだった。嬉しかった。おっちゃん、妙な顔をしていた。半笑いのような、すごい真面目な顔のような。