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日記です

10月18日

匂いを感じて、周囲を見渡す。あんなところから、この匂いがやってくるのか!

やっと金木犀の匂いを嗅ぐことができた。

ちょっとばかり引きこもっていたわたしは、ツイッター金木犀の花が咲いたことを知ったのだった。

だいだい・みどり・ちゃ の金木犀を、みどり・ちゃ だけの金木犀に変えていく幼稚園児だった。

花咲か爺さんのように、集めた花を撒き散らしたこともある。空中に だいだい色。きれいだった。

チリトリに摘んだ花を集め、家に持ってかえり、半分に切った牛乳パックに詰め替えて、トイレに置いたこともある。

🌳🐕🌳

ツイッターの呟きで、金木犀の花が咲いたことを知ったときの、なさけなさ。母の日、姉はプレゼントを用意していることを知ったときの、あの不義理感に似ている気がする。

思い入れのある金木犀だったゆえに、秋の季語である金木犀だったばかりに、ショックが。自分で気がつきたかった。それか家族との会話で。

あぁ、屋内で完結してしまう生活。

まあまあ、苦しい日々でした。いまは元気。学校に行けてもツラくなるのですね。体力が追いつかないので、運動します。あさにランニングとかすると、散歩犬に出会えるので良いかもしれない。ロールケーキみたいに寸胴だった柴犬をもう一度みたい。

学校に行って、自分の体力のなさや、頭の悪さを知って、悲しくなった。取り戻して、鍛えたい。

頼ることができるようになった。自分の力だけではどうにもならないので、スクールカウンセリングに行ったり、母に漢方薬を買ってもらったり、「合宿」と称して、姉の部屋に布団を敷き、スマホをいじらず寝て、起こしてもらったり。

プライドは捨てよう…助けを借りよう…といってももう18歳なんだよなぁと考えてしまう、大人になって生きていけるのだろうか。診察代も薬代も起こしてくれる人もいなくなる。いまのうちにどうにかしたい。

姉の部屋に泊まるようになってから、姉と喋ることが増えた。協力者を得たような気がする。姉は看護学校に通っていて、看護師を目指している。心強い。健康になるぞ。

健康じゃなくちゃできないことがたくさんある。せめて大人になったとき、健康であってもなくても、いのちをだいじにできますように…ひとにやさしくなりたいよ…でもやさしいってなにか分からないな。自分の頭で考えた結果のやさしさを持ちたい。

10月4日

朝、なぜか目がパッチリ開いた。体も動く。ごはんを食べて、顔を洗って歯を磨いて、メイクして着替えて、昨日の晩ごはんをお弁当に詰めて、家を出た。

自転車で駅へ向かう。わたしやるじゃん。でも電車に間に合わないかもしれない。

坂を下っていると、うしろでカランカランと音がした。なにか落ちたな、嫌な予感。片手でリュックのチャックを触ると、ない。アクリルキーホルダーが、ない。

もう、いいや。自転車は漕がなくても進んでいく。電車があるし、もう、いいや。憧れだったオサムグッズのアクリルキーホルダー。最近買ったばかりだった。可愛い金髪の女の子のキーホルダー。

電車のホームに駆け込むと、目の前で発車。間に合わなかった。そんなことならキーホルダー… リュックのチャックを触る。やっぱりない。

心のダメージは少なかった。つぎの電車でも間に合うし。1時間目から出席できることのしあわせ。

流れる景色をみる。日の光やみどりの色が夏より目に優しくて、秋だなぁとしみじみした。

1・2限は古典で、3・4限は現代文。国語づくしの時間割だ。現代文の授業は、演劇で知り合った同い年の友だちも同じだった。

その友だちとお昼を一緒に食べた。演劇のこととか、いままでの学校生活の話をした。

そのあと、併修している通信の授業を受けに、教室へ向かった。なかなか会えなかったひとに会えた。「前の高校で同じクラスで同じ部活だった友だち。時期はズレたけれど、わたしとその友だちは、同じ定時制高校に転入した。また同じ教室で授業を受けられるのが、懐かしくてうれしかった。

日本史の授業はとても面白かった。いつのまにか姿勢が前のめりになって、聞くことに必死になった。授業を休んでいた私、大馬鹿者ですよ。(通信の授業なので、年間4回のスクーリングで単位が取れる。あとはレポートを提出するのみ)

お母さんお父さん本当にごめんなさい。学校はちゃんと行かなくちゃ。バイトのお給料で、すこしは学費を払おう。

安心して通える学校だ。わたしはこの学校が好きだ。だけど、なぜか休んでしまう。

学校に行けたら勝ち、行けなかったら負け、など思わないようになりたい。学校に行けた行けなかったで、自分の価値を変えてしまうのを食い止めたい。

家への帰り道、小学校の下校時間と合わさった。慎重に自転車を漕ぐ。替え歌で笑っているふたり組の男の子がいて、懐かしくなった。

行き道でさよならしてしまった、アクリルキーホルダーを思い出す。あのキーホルダー、だれかの宝物になってくれないだろうか。

小さい頃、下ばかり向いて歩くこどもだった。だれかのキーホルダーを、見つけたことがあったな。道路の溝に落ちていた、ねこのマスコットキーホルダー。毛羽立ってゴワゴワしてすこし汚れていた。どこのお店にも売っていない、特別なキーホルダーだった。わたしのものにしたかったけれど、葛藤のすえ、原っぱへ隠した。そういえば、姉は宝物箱のなかに、拾ったマスコットキーホルダーを入れていた。それもねこだった。ミャーちゃん。

オサムグッズは時代を超えて愛されているから、きっと一目惚れするひとがいるはず。あぁ、だれか持って帰ってくれ、訳もわからず心を奪われてくれ。

家についた。マームとジプシーの『cocoon』をみた。なんどもなんどもみてしまう。経験していないことに手を伸ばし想像して考えつづける姿勢が、かっこいい。日本史の授業では第一次世界大戦のことを習った。もっと詳しく知りたい。

19時ごろ、母が帰ってきた。晩ご飯の料理を手伝った。家事を母に任せっきりなので、手伝う習慣をつけたい。いざ手伝うとなると、恥ずかしくなるから、習慣をつけろ!

いま ひらめいたのだけれど、習慣になったやさしさは、尊い気がする。迷いはなく、恥ずかしさもなく、利益を考える間もなく行動にでる。それって本当にやさしくて、それができる人が、やさしい人なのでは。やさしさには種類があるから、それだけではないだろうけど!

夜ごはんを食べながら、母にキーホルダーの話をした。母が「じゃあ、探してみよっか」と言ったので、ふたりで散歩がてら捜索することになった。

母と歩くのが、久しぶりに感じた。いっしょに買い物へ行くこともなくなった。いま書いていて、すこし寂しくなった。こうやって一緒に暮らして話をするのも、いまのうちだけだ。

前に、ふたりの影がながーくうつる。懐かしい。きょうは懐かしいことばかりだ。

スマホのライトを使って捜索したが、アクリルキーホルダーは見当たらなかった。母は、どうやってスマホの懐中電灯機能を使うのか分からなかった。

母が「ありゃまー」とか言うので、キーホルダーが見つからなかったことにすこし悲しくなった。「ここらへん小学生が通るから、だれかが持って帰ったのかもね」と母が言った。誰でも考えることなのかもしれないけれど、わたしたち親子だな、とおもった。セブイレに立ち寄って、アイスを買って、コンビニ袋をカサカサいわせながら、帰った。母が駐車場付近でアライグマをみたことや、ダイエットしなきゃとおもっていることを話した。お父さんとお母さん、お姉ちゃんたちに、長生きしてほしくなった。こんな話をもっといっぱいしたい。

9月16日

寝坊をしてしまって、朝からおばあちゃん家にいる予定だったのに、午後4時におばあちゃん家に到着予定になってしまった。まぁ、朝から行くとは連絡してないからいいか。おじいちゃんに「今から行く」と電話をして、出発。

おばあちゃん家へ向かう道のりは、特別だ。おばあちゃん方面へ向かう電車、窓から見える景色、乗車する人々。

他の電車と違って、この電車では周りの目が気にならない。乗車する人すべてが優しい人にみえる。座席は自分の特等席のように感じる。

降りた駅の改札口で、おばあちゃんが待っている。嬉しそうに笑って、手を広げて、抱きしめてくれる。外国の映画でよく見るシーンを、わたしたちは自然にこなすことができる。

おじいちゃんは車の運転席で待っている。後ろの席におばあちゃんとわたしで座る。おばあちゃんの肩に頭を乗せると、わたしの頭におばあちゃんが頭を乗せる。どんなときでも乗せてくれて、おばあちゃんといるとき、自分の前世は猫だったんじゃないかと、よく思う。

家は二階建てで、ちょっとボロくて、トタン屋根は茶色に錆びている。

玄関に入ると、靴棚の上に、小さい信楽焼の狸がいた。おじいちゃんが旅行先で買ってきたらしい。狸をじっと見ると、おじいちゃんが「それええやろ」と言って、狸の目線をドアの方に調節し、いい感じになったら、狸の頭をポンと叩いた。

お仏壇に手を合わせて、ちょっとしたら、晩ご飯の買い出しに行く。おじいちゃんの車でスーパーに行く。運転がすこし心配になってしまう。キョロキョロしつつ、悟られないよう隠す。

スーパーに着いた。わたしはカートを押す係だ。おばあちゃんに「すき焼き風に焼いたやつがいい? 胡椒のほうにする?」と訊かれた。どうやら今日の晩ご飯は、わたしが好きな野菜炒めらしい。わたしは「すき焼き風が良い」と答えた。

そしたらおじいちゃんが「たまごあるか?」「肉は違う店でみよか」と言うので、嫌な予感がした。本物のすき焼きと話がすり替わっている。

すき焼きなんて!そんな!昨日、姉と父がおばあちゃん家でご馳走を食べたばかりなのに。よし、とんかつにしよう。「やっぱりトンカツが食べたい」

おじいちゃんは職人のような目で、魚やら肉やらとにらめっこする。おばあちゃんとわたしは、お買い得商品を手に取る。おじいちゃんは「そんなんはあかんわ」と、別の高級のほうを勧めてくる。おばあちゃんは「こっちのとそんか変わらんよ」とキッパリ言う。おじいちゃんは「そうか」と口をつぐむ。主婦強し。

次の日の昼ご飯は、エビフライにした。揚げ物続きになるが、まあ食べれるでしょ!

おばあちゃん家のキッチン。ジブリに出てきそうなキッチン。

トンカツの予定だったが、おばあちゃんに「エビフライにしやん?」と言われたので、エビフライにした。トンカツもエビフライも大好き。

おばあちゃんは料理上手だ。よくわたしに「見てるだけでも勉強になるよ」と言う。手伝ったらアドバイスをくれる。

海老の殻をむいて、爪楊枝で背わたをとる。おばあちゃんは器用にとるけど、わたしは身をほじくるだけだった。それから身に斜めに切れ込みを入れる。こうすると海老が真っ直ぐになる。冷蔵庫ですこし冷やす。

薄力粉に、パン粉、卵。わたしはパン粉をまぶして、油で揚げる。

3人で食卓を囲む。おばあちゃんおじいちゃんは、エビフライを4つくらいしか食べない。なぜだ。わたしはいっぱい食べることになる。

おばあちゃん家に行くと、大抵胃もたれする。デザートにぶどうを一房食べたりする。なんたる贅沢ですか。だめだよ!しかも今日は敬老の日なのに。

おばあちゃんとおじいちゃんと過ごしていると、平和ボケしてしまうほど、穏やかでいられる。ゆるい防犯意識のこの家に、なぜ空き巣犯がこないのか。ここらにはやさしい人しかいないんじゃないか。ユーミンの『やさしさに包まれたなら』を思い出す。きっとここには神様がいるように思う。

いやいや、平和ボケしちゃいけねえ。わたしになんの責任もいらないから、こんなに安心できるのだ。ここは学校もバイトにも無縁な場所で、いまは夏休みだから学校に行っていないという罪を犯していないし、おばあちゃんおじいちゃんは、わたしの生活状況をあまりしらないから。

ぐうたら猫になった気分だ。たまにはこんな生活もいいのだろうけど、わたしは何にも頑張っていないから、いつもぐうたら猫だから、だめだ。

二階に敷布団をひいて、寝る準備をする。おばあちゃんたちは、一階でテレビを見ている。前よりテレビの音量が大きくなった気がする。おばあちゃんは耳が遠くて、言葉が音として伝わってしまう。わたしは言葉にするのを怠って、つい頷きや首を振ることで答えてしまう。おばあちゃんともっと会話をしないと。補聴器も合わないらしい。聞こえやすい音量とトーンがあるみたいで、研究している。おじいちゃんの言葉はおばあちゃんに届く。会話もスムーズにしている。

おばあちゃん家のすべてが好きだ。鏡、タンス、ドライヤー、えんぴつ、テレビ、なんでも。おばあちゃん家にあることによって、プレミアがつく。おばあちゃんが大好きだから。

お風呂に入って、化粧水塗って、ドライヤーをして、横になる。となりにはおばあちゃんがいる。わたしが寂しいだろうと思って、いてくれる。寂しくないけど、一緒に寝る。おばあちゃんはプスープスーと寝息をたてる。うるさいけど、一緒に寝る。

弱気女子退部届

「つまらない人」という言葉がとても怖い。

「嫌いなタイプはつまらない奴とか、よく言えますね」という軽蔑とともに、その言葉を聞いた瞬間、読んだ瞬間、キュッと心臓が萎縮するのを感じる。恐怖が軽蔑を上回って、なにも言えなくなる。わたしは軽蔑できる人間ではない。

これは「可愛くて(かっこよくて)面白くて、なにひとつ敵わない人」に対するときもそうなのかもしれない。

見るからにアウトないじめではなく、「周りの人間も思っているであろうこと」を言ったり、見下している人を馬鹿にすることを、そういう人にやられてしまうと、何も言えなくなってしまう。

わたしが、つまらないからだ。なにひとつ敵わない、つまらない人間だから、何にも言えなくなる。

つまらない人間であることに、強くコンプレックスを抱いている。人と上手く喋れない。自分をつまらない人間だと思う、ひとつの理由はこれだ。

「他の人より自分は人と上手く話せない」と強く気づいたのは中学一年のころだった。違和感を捉えることができた。人と話していると、パジャマで外に出ているときのようなソワソワ感がする。捉えることができるようになってから、小さい頃を振り返ると、小学4年生のころから違和感を抱いていたことに気が付いた。

とくに、異性と話せなかった。異性との関係をどう築くかぜんぜん分からなかった。異性と仲のいい女の子や、ケンカする女の子が羨ましかった。ケンカできるほどの仲になったことがない。小学4年生のころ、軽いノリで「死ね」と言い合っている男女を見て、羨ましくなって、ぜんぜん仲の良くない、関係も築けていない男子に「死ね」と言ってしまったことがある。巻き込まれた男の子は無言で立ち尽くした。「え?」と言わんばかりの顔を見て、わたしは「なんか違うぞ、これはいけないことをしてしまった」と悟った。家庭で「死ね」は破門ワードだったこともあり、強烈な出来事だった。言い放った自分の声のトーンを覚えている。とても天気が良くて、カーテンから光が漏れていたことも、教室のどこらへんで言ったのかも、近くにいた女の子の顔も名前も、男の子の顔も名前も、男の子の近くにいた男の子の顔も名前も、覚えている。

他にも、覚えている失敗が、たくさんある。

ずっと空回りしている。

異性に関わらず、同性の女の子にも失敗した。いまも失敗している。もう、18歳。大人になってから失敗するのは、こわい。

別室登校をして、不登校になって、気の合う友だちだけと関係を持って、それ以外と関わる必要はなくなって、とても安心した。高校に入学して、上手くいかなくて、定時制高校に転入して、人と関わることを避け続けて、だからか、自分と全く違う人に対して、どう接すれば良いのか、話せばいいのか、分からない。関係を持たざるを得なくなったとき、とても怖くなる。なんか、わたし育ってない。みんな知らないうちに大人になっていく。

つまらない人間、魅力のない人間、どうでもいい人間。

わたしは人のふり見て我がふり直しすぎるところがあって、人のふりを見てからではないと行動ができない。ナヨナヨしている。オドオドしている。自分は悪口を言える分際ではない。でも、ずっと言われっぱなしでいいんですか。自分にも怒りの感情があるじゃないですか。それでも良い人として相手に接するんですか?それは何故?敵わないからか。

でもずっとずっと抑えて目をそらして、それで良いのか自分は!怒れよ!悪口言えよ!相手を罵倒しろよ!心の中でもいいから。いざというときに戦えるようになってよ。自分も大切な人も守れるようになってよ。

自分はつまらないからって何にも言わなくなるの、ほんとにつまらないよ。それがつまんないんだよ。

なに自分は潔癖な人間だと思ってんの、どす黒いこと頭に浮かぶときあるじゃん。そらすなよ、そんなんで優しい人を目指すなよ。

つまらない人が好きだ。愛おしくて大好きだ。でも、自分はこのままじゃダメだ。つまらない人はもう嫌だ。でも、つまらない人、大好きなんだ。かっこ悪い人も、冴えない人も好きで。

でもこんなわたしに好かれたところで、なんにも嬉しくないでしょ。めちゃくちゃ美人だったら、よかった。敵わない人に、好きだって言われたくなる。優しいギャルが好きなんでしょ。くそう。その役割は神様や天使や二次元の女の子に任せます。

人間として生きます、ぜったい。つまらない人は脱却します。でも、つまらない人好きだよ。つまらない人なんていないよね。でも、つまらない人でいることは、とてもつらい。

つまらなくても生きていていいじゃん、という気持ちが根底にある。このままで生きていてもいいじゃん。でも、最近このままじゃダメなことに気づいた。提供してもらってばかりで、サービス精神がぜんぜんなくて。綺麗な人やおしゃれな人を羨ましがって、上手く喋れて面白い人を羨ましがって。努力もせず、努力していることもしらず苦しみも知らずに、勝手に面白がって眺めて、傷つけられたら被害者ヅラして。

つまらない人が好きなのは、執着してしまうのは、他人に勝手に自分を投影しているからだよ。他人のなかの自分を愛しているんだよ。自己愛なんだよ。自分と他人は違うんだよ。

きょう、18歳になった。空回りばかりだけど、何にもしないことは無しにします。何にもとらわれずに話すことができる人はいますのでご安心を!あなたのことですよ。だからここまで生きてこれました。ありがとうございます。

ウイルス性結膜炎に気をつけろ

   

ウイルス性結膜炎になった。最初は左目が少し腫れているくらいだったのに、いまじゃ両目がカエルの目みたいに腫れて、真っ赤に充血している。

お医者さんによると、発症後1週間は感染力が強いので自宅療養とのことだった。

きょうの朝、発症後1週間を記念したので、受診しにいった。まず、自転車で眼科へ向かうだけでも辛かった。風が痛い。ジワジワとHPを削っていく。そして顔が醜い。でもって眼鏡。わたしは極度の近眼で、眼鏡を掛けると、目の縦幅は5ミリくらいになる。眼鏡をかけた自分が大嫌いで、いい思い出はなくて、わるい思い出はあるから、眼鏡で外へ出られなかった。

これは眼鏡でも外へ出られるようになれ!っていう試練なんだわ!神のお告げよ!と無理に考えた。

わたし本当は可愛いんです、と思わなきゃやってられない。わたし、本当は可愛いんです。仮の姿。いまはカエルなんです。

 

眼科に到着し、受付で症状について話す。「発症後1週間が経ったので、大丈夫か診察を受けに来ました」と告げると、「いやまだ炎症があるので出ちゃダメですね」と言われた。つづけて「目薬を差してから1週間は自宅で…」

だんだん絶望した。この顔でここまで来たのに。もしかしたらここに知っている人がいるかもしれないのに。もしかしたら好きな人がいるかもしれないのに。眼鏡を掛けたら、周りの人の視線すべてが分かってしまう、見られていないかもしれないけど、受付で自分の名前を述べた、あの名前、嘘ってことにできないかな。わたしは外国人、ヘンリー・マーガレット。

発症後1週間たったのに。どうやら勘違いだったみたいだ。まず前に診察してもらった病院がお休みだったからといって、違う病院を受診したのも良くなかった。ちゃんと説明聞いてればよかった。自分の都合のいいように解釈してしまって、やっぱ、ぜんぶ、自分が悪い。


感染するからだろう。人の少ない、受付すぐのイスに座るよう言われた。なんだここ!

受付カウンターの端。なんでここ!

いやいや恥ずかしい恥ずかしい、ここは招き猫とかが座るポジションだよ!なんで!

ううう…悔しい、虚しい、恥ずかしい。涙が出てきた。ボロボロ出てきた。これから1週間は外出禁止。大切な仕事に行けなくなってしまった。くそう、ウイルス性結膜炎、くそう。なーにがコンタクトの診察だよ、なーにが学校検診の再診だよ。なーにが、緑内障…それは…ごめんなさい。いや、もう大人になれ!ウイルス性結膜炎に負けるな!

頬に伝うこの涙には、ウイルスが混じっている。


 幽霊になりたかった。見える人だけ見えればいい。わたしは幽霊。でもってカエル。眼鏡はカバンの奥底。もう見えません、わたしは見えてないし、見えません。猫の刺繍がついたハンカチで、顔を隠した。


名前が呼ばれた。別の場所へ移動となった。隔離が必要らしい。すこしだけ救われた。部屋に着いて、わたしが泣いていることに、看護師さんは驚いていた。「どうしたの?痛い?」「なんか言われた?」と聞かれた。これを、今年18になる人間が経験するとは。小学生か。すこしだけ、見た目幼くてよかったー、と思った。


18歳、18歳、精神的に未熟だ。こんな18歳やだよ。

しばらくして、もう一度名前を呼ばれた。診察だった。


診察室に入った。麻酔の目薬を入れられて、上まぶたをひっくり返され、まぶたの裏も見られる。痛かった。とても痛かった。抵抗してしまった。18歳。


なんて恥さらし。麻酔が良いように効いていた。トローン。もう、わたし、どうでもいい。顔とか、どうでもいい。わたしは、きょうの看護師さんのように、ひとに、やさしくなる。


家に帰ってからは、干からび状態だった。取り返しのないことをしてしまった、なみだも枯れ果てた。

紅に染まったわたしを誰か慰めてくれ、目が真っ赤なんだよ、あぁ、スマホを手にし、先輩にLINEをした。

「暇やったら『エイリアンvsプレデター』一緒に観よう」といってくださった。

テレビ通話にして、スマホカメラをテレビ画面に向けて固定してくれた。上映が始まった。画質と音は荒かったが、うれしかったから、ずっと見ていられた。中盤に画面が止まったけれど、申し訳なかったので音声だけで楽しんだ。

映画が終わって、喋った。眼科でのことを笑ってくれて嬉しかった。オカルトの話とか、いっぱい話した。

このことを胸に、のこり1週間がんばるぞ。

みなさん、ウイルス性結膜炎にはお気をつけて。助言と、慰めることはできます。

ツイッターで、たくさんの人の生活を知れるようになった。ツイートは生活のほんの一部を切り取ったもので、嘘かもしれないけれど、全く異なるいくつもの生活が同時進行していることに感動する。わたしのタイムラインには、子どもの成長記録とか、精神薬をポリポリ食べているとか、先生の萌えエピソードとか、いろんなことが流れている。見逃したくない。流れつづけるそうめんをガッと箸で留める、目の前を流れゆくお寿司たちを一皿残らず取る、みたいな感じで、他人の生活に対して、ツイートに対して、執着している。

電車の窓に流れていく景色を、1秒後には思い出せなくなるのが悔しくなる。さまざまな家、団地、屋根の色、洗濯物を干す人、観葉植物に水をやる人、赤の自転車、傘をささずに走る人、他人の、名前も知らない人たちの生活に触れられるような気がするから、ツイッターを眺めてしまうのかもしれない。

どんなに頑張ってもそうめんを取りこぼしてしまうことや、テーブルに埋まっていく大量のお寿司たちを目にして苦しくなるのは、すべてを食べつくすことができないから。それなら取らなければいい。けれど全部食べなきゃいけない気がしてしまう。大好物も、食べると吐き気がするものも。女子高生の飛び降り自殺動画も、新宿の殺人未遂現場写真も。

深夜、「死にたい」と検索する、膨大なツイート、覗き見する、しんどそうで、なんでこんなに世の中には死にそうにつらい人が多いんだと、絶句する。

想像できなかったこと、想像もしなかったことが、ツイッターには流れている。想像が追いつかない、想像しようとしたことが、もうツイッターに溢れている、目に見えてしまう、でも本当のことも紛れているから目を塞ぐわけにもいかない、本を読んでいればいいのだろうか、新書とか、あとテレビとか、でもめざましテレビのJK特集なんて的外れだった、ツイッターはもうわたしの一部になっているのか、ツイッターしていない人は、時代遅れになったりしないのだろうか、いや、もう毒されすぎだ!!

わたしは盗み聞きした良い言葉をメモして、自分のものにした気になったり、ツイートをいいねして、その生活に自分も関与したように思ったり、要は他人の生活を覗き見るのが好きなのだ。だから日記も小説も演劇も好きなんだろう。小説や演劇は架空のものだから良いとして、実在する他人の生活を自分に取り込んでいくのは、どうなんだろう。自分と他人は違う。他人の生活や苦しみや痛みを、ツイッターだからといって勝手に覗き込んで、自己満足なんじゃないか。電車の窓からの風景をぼーっと眺めるのもいいのに。そんな交通量調査みたいに、数取器をカチカチ鳴らしつづけなくても。

いろいろな人を知りたいのだと思う。名前を呼びたい。けど、名前を知ることができないことのほうが多いから、虚しいのだ。全人類をひとりひとり知ることはできない。だから想像するのか。すべての苦しみを知ることはできないから、祈るのか。だから、ツイッターで追い求めてしまうのか。諦めがつかないなぁ、欲張りだなぁ。

夏ですね

自転車を漕いだ。影ができていた。当たり前のことだけど、驚いた。ずっと家にいると影の存在さえ忘れてしまう…。影は新しいフォルムになっていた。一昨日髪を切ったからだ。わたしが変われば影も変わる。なんか面白いし、ちょっと、詩っぽくて格好良くない?と、おもった。ので、ここに書いておきます。

風がビュービュー吹いている。ふらっふらの蝶々とぶつかりそうになった。都会って、蝶々とぶつかりそうになることは、あるのだろうか。田んぼの泥臭い匂い、白い犬の側をおそるおそる通る、細道に入ると、青いススキが顔に当たる。

はー、田舎。誇れるほどの田舎じゃないけど。あー、夏だ。ジブリだ。夏になるとジブリ映画を観たくなる。ジブリの夏!!金曜ロードショーきますね!あとサマーウォーズ時をかける少女もきますね!

ということで、「ルージュの伝言」を聞こうと思ったけど、イヤホンをしながらの自転車運転は罰則なので、しなかった。わたしは2メートルくらいの信号も守る女。

ついたついた。図書館。快適、涼しい。真っ先に新刊コーナーへ行って、それからずっと気になっていた尾崎翠さんの全集を手に取った。ミッションクリア。読みきれないくせに五冊借りた。あらゆるジャンルを均等に借りようと思っていたのに、やっぱり偏ってしまった。綿矢りさみうらじゅん穂村弘。もっと幅を広げたい。けど、綿矢りささんの本は初めて読む。『勝手にふるえてろ』の書き出しはわたしじゃん!となった。すごいなぁ。

小説と演劇、それから映画に詳しくなりたい。落語も知りたいし、なんでも知りたい。小説はぜんぜん読んだことがない。でもツイッターで「漱石LOVE」みたいなことを言ったので、本を読む人だと思われている。けど、夏目漱石は「こころ」しか読み切ったことがない。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」はまだ途中だ。「坊ちゃん」においては、まだマドンナが出てきていない。でもこれだけは言える。夏目漱石は……すごい。文章表現にとても感動する。「吾輩は猫である」と「坊ちゃん」にはキュンとくるグッとくる表現がページを捲れば必ず出てくる。

そうだ、わたしの計画。それはグッときた言葉をノートに書くこと。メモする。文字じゃなくて、街中の言葉も。ノートに書くことによって、何を得るかは分からないが、その言葉がわたしだけのものになった気がして、嬉しくなる。最近だと男子小学生が「カブトエビでてこい!!」と田んぼに向かって叫んでいたのがグッときた。

感受性。感性。欲しいなぁ。この夏の目標、演劇においては「観察して変化を捉えて、どう変化したか、なぜ変化したか、変化したことでどうなったか、言葉にできるようになりたい。演出の方がなぜこういう指示を出したのか、なにを考えているのか、自分も考えて注意深く観ること」。文章においては「諦めずに粘る、下手でもベストを尽くす。日記しか書けないし、文章の種類を知らなさすぎるから、いろんな本を読む。語彙力と表現力が欲しい」。

去年の今頃は、家に引きこもっていたなぁ。定時制への転入を決めて、9月にある受験までダラダラしている頃。7月末にバイトを始めたっけ。生き延びたんだなぁ。いまも変わらないような生活してるけどな。もう単位は落としたくないよ。去年の君のために頑張るよ。あと未来のわたしのために。

図書館の帰り、ドラッグストアへ寄って、ヘアカラー剤を買った。ココアブラウン。髪の毛を染めるかどうかは分からない。高校生だし、高校生の年齢だけど、自分が高校生だという実感がない。制服も捨てちゃってもう着れないし、同い年は2020年に卒業するし、わたしの卒業は見当たらないし。だからもうただの17歳の人間として生きる、と決めて、そのために「髪を染めるぜ!」と興奮気味に決意したのだけど、高校生で髪を染めている人は、いくらでもいるのだ。黒髪に執着している自分いやだなぁ。でも、この曖昧な状況をどう生きていけばいいのか分からないんだよなぁ。集団に属することは大変だけど、すこしだけ楽なのかもしれない。進路や人生においては。でもわたしは

「辛いことや、苦しいことがあっても、将来が不安でも、誰かが言ったからではなく、自分の人生を、自分で考えていく。OK?」

という言葉が、支えてくれているので大丈夫です。

趣向ジュニア『大阪、ミナミの高校生』

に出てくる神様の言葉。

…髪を染めるのはどうしよう。

みなさんお元気で。読んでくださって有難うございます。新聞を書いて、ここにアップするのもいいかなぁ、と思っています。文章の達人になりたいですね…あと演劇の達人…