ぬくめる

日記です

jupiterのみを

上の階に住んでいる誰かがリコーダーで平原綾香の「jupiter」を奏でている。朝にきこえることもあれば、お昼にきこえることもある。夜はない。ちゃんとご近所のことを考えている。

母と「jupiterなってるね」と言い合う。毎日のように熱心に、いったいどんな人が奏でているのだろう。お昼に音色がきこえるということは、学生ではないのか…?いえいえ、家でこっそり過ごしている学生たちはたくさんいる、と自分のことを振り返ってしみじみしながら、どんな人でもいいから、その音色を絶やさないで、と思うのだった。誰にも咎められませんように。jupiterのみを奏でる人がいる。それぞれの生活があるということを、思い知ることができる。

こだまさんのエッセイを読んでハッとしたのだけれど、これ、リコーダーではなく、オカリナかもしれない。オカリナ教室に通っていたという、こだまさん、そのことをエッセイに書いてくださって有難うございます。こだまさんは喫茶店のアルバイトを始められたそうで、バイトが大苦手な私は、とても励まされています。8月23日発売の『ずっと、おしまいの地』、買います。

友だち LOVE

生きてるだけで偉いってことは、本当の本当は友だちのためだけにある。友だちでいてくれている人はみんな、人生を手放さないように堪えて踏ん張って生きているような気がする。一言でいえば、めちゃくちゃ頑張って生きている。つらいだけではなく、楽しい瞬間もあるけれど、過去に引っ張られたり、いろんなことが邪魔をしてきて、こんな状態で生きていたくないと思わされてしまう。そんななかで生きている。とにかくとにかく凄いのだ、生きていることが。とにかくとにかく凄いの、友だちは。退院、おめでとうございます、友だち。なんだか偉そうじゃないだろうか。こんなところで伝えてごめんなさい。

4月3日

明日から学校が始まる。勉強はとても楽しいし、もっと学びたい。教室に入った途端に萎縮してしまうのが辛いところで、どうしてあんなに恐怖してしまうのか分からない。教室に入ると、目が疲れてるのかな、と思うほど、目の焦点が合わない。人の存在を認識したくないのだろうか。なんであんなに他人の目を気にしてしまうんだろう。これは偏見でしかないのだけれど、どうしてみんなあんなに、人と関わるのが上手なんだ。

対人恐怖はまだまだあるけれど、そのことでいっぱいいっぱいになることは無くなってきた。人生第2章という感じがする。全く新しい困難がやってきた。恐怖しながらも何かをやりたいと思うことに戸惑っている。恐怖心に負けたくない。どう上手くやっていけるだろうか。切羽詰まることあるだろうけど、これまでの反省を活かして、周りの人に助けてもらいながら、ゆっくりやっていきたい。

プラネタリウムに行きたい、植物園、博物館、美術館に行きたい、映画を観たい、大学に憧れる、友だちが欲しいとおもった、演劇の仲間が欲しいとおもった、仲良くなりたいと思った人と、仲良くなりたい。最近、これまでを振り返って、悔しくなることや、後悔することがある。いままで知らなかった選択肢が見えるようになったから、後悔することができた。あのときこうしててもよかったのに、とか。後悔というか、不満だろうか。あの頃を楽しみたかったし、いまを自分なりに楽しんで生きたいのだと思う。

いまはやりたいことをやれるはずだ。少しは自分の責任を負えるようになったはず。自分で選んだら、やっていけるはず。

ここのところずっと落ち込んでいて、生きる気力が湧いてこないというか、エンジンが故障しているような感じがあった。言葉にできないことが沢山あって、だから誰にも言えなくて、それがとても苦しい。誰かに知って欲しい気持ちもあったのだけれど、自分の存在を消したくて堪らなくて、言葉を残す気が起きなかった。

自分の承認欲求や表現欲求を、卑しいものだとして、徹底的に押さえつけてしまっていた。だからか、他人の承認欲求や表現も、受け取ることが苦しいときがあるというか、みんな何も言わないでくれ、と思ってしまうときがある。

承認欲求や表現欲求は、自分を苦しめるものでもあるけれど、生きていくうえで大切な、無視しちゃいけないものだ。それらの欲求は、きっと、大切にされたがっている自分自身の声だ。

存在をなかったことにしたくなるのは、これ以上自分の嫌なところを見たくないからで、これ以上間違いを犯したくないからで、誰かに影響すること、傷つけることが恐ろしいからで、自分に与えられた優しさに向き合うことができなくなってしまったからだ。

だけど生きていくなかで、傷つけることや傷つくことは当たり前で、優しくすること、優しくされることも、たぶん当たり前で、生きていてよかったと思えるくらい楽しいことはあるし、感動する瞬間は、たくさんたくさんあるのだ。どれだけ存在を消そうとしても、ちゃっかり感じてしまうのだ。そのちゃっかりさには失望するけれど、愛してもいるから、生きている。

いじけている。いままで自己表現ができなかった。表現してからの他人の反応を知ることができなかった。それは冷たいばかりじゃなくて、あたたかいものもあったはずだ。他者からの反応や、受け取ってくれたと感じること、もらった言葉、言ってよかったと思うこと、あれはお節介だったと思うこと、間違えたと思うことが、私は少なすぎるのかもしれない。間違えないでいるためには、何もしないでいることが一番いいからだ。

表現したいというか、もっと嘆きたいし、弱音を吐きたい。けれど弱音を吐いたら、弱音を吐けないでいる人がもっと苦しむような気がして何も言えなくなる。弱音を吐かない人も、弱音を吐く人も、立派だよ。考え方、価値観の違いだよ。どちらの生き方が尊いとか、崇高とか、ないよ。もっと間違っていいんだ。間違ったら、修正して、工夫を凝らして、表現を磨いていくんだ。自分にあった生き方を探すんだ。読んでくれた誰かが、自分(これを書いているわたしじゃなくて、読んでいるあなた自身)のことを語りたくなるように、書きたい。そうなるにはどうしたらいいんだろう。自分や誰かの口を閉ざしてしまうことが一番こわい。

幸せだ!

あさ、キューピーコーワゴールドを飲んだ後、「体力の限界」と呟いた。

正面向かいに座っていた母が、「今日は休んだら?」と言った。ここで、このタイミングで聞けてしまうのか。状況整理のために一瞬固まってしまった。

おもい体をなんとか動かして、駅に向かい、電車に乗った。景色を見るのもしんどくて、窓ガラスを見ていた。マスクがなければ、完全に疲れた人で、席を譲られていたんじゃないかと思う。みんなマスクを取ったらどんな顔で、表情なんだろう。疲れている人、いっぱいいそうだ。

「次は〇〇駅、〇〇駅です。〇〇駅を出ますと終点の〇〇駅に到着します」とアナウンスが入り、

「いつもご乗車ありがとうございます。体調が悪いと感じた際は、いちど駅に降りて、外の空気を吸ったり、ベンチに座るなど休んでから、もう一度ご乗車ください。また、体調の悪い方を見かけましたら、お声がけし、駅係員にご連絡ください」

と続いた。こんなアナウンスは聞いたことはあるのだが、今日はすごかった。低音の穏やかな声で、すべての音が丁寧だった。たぶん車掌さんのオリジナルのところがあって、そこを、肝心なところを、忘れてしまった。「コロナ対策のために、怪しいやつに目を光らせろ」みたいな、エチケットに気をつけましょうみたいなものではなくて、本当に心から日々の疲れを労ってくれるようで、感動した。

学校に着いて、友だちに挨拶して、しゃべる。たのしい。クラスメイトと目を合わすことも、肩を叩くことも、手を振ることも、笑うことも、話しかけることも、できるようになった。いままで、とても人や社会が怖かったのだと思う。ずっとガチガチだったし、教室でもどこでも、どうしていいか分からなかった。いまはそんなときが少ない。しゃべっていなくても、平気でいられる。いろんな人の優しさと、人からの優しさを大事にしてきた自分のおかげだと思う。なんだか本当に、羽化した気分だ。

タイミングだ、と思う。今朝の母の言葉に、一日中、じわじわと驚いていた。ずっとずっと欲しかった言葉なのに、嬉しいとか困惑だとか怒りだとか、そんな感情はない。ただ母があまりにも自然に言ったので、なんでそんなことを言ったのか分からなかったし、私も「お、有難う」と受けとれたしで、もう、そんなタイミングでしかなかったというか、母もその言葉をずっと言いたかったんじゃないかとか、私はその言葉を、なんの罪悪感も、不登校を許してもらえた嬉しさも感じずに、ただ疲れを労ってもらう言葉だとして、受けとりたかったんじゃないだろうか。

母の言葉に乗っかりたくなったが、今日はどうしても学校にいきたかった。友だちと遊ぶ約束をして、それがすごく楽しみで、友だちに楽しみだねと言いたかった。行かなきゃ人生が終わるだとか、自分をますます嫌いになってしまうだとか、そんな理由で登校していた自分を、労いたいし、忘れないし、いつまでも大切にします。

みんなそれぞれ、ただ思い思いに教室に存在しているだけであって、なんの悪い企みもないのかもしれない。わざわざ悪いことをしたい人は、少ないのかもしれない。

専門学校で親しい友だちができて、私は教室で一人でいることがとても苦しかったのだと気が付いた。一人でいるのは好きだけれど、安心して一人でいることはできなかった。本を読んでいるときも、寝たふりをしているときも、恐怖でいっぱいだった。

誰かといて安心したって別にいいんですね。なんだか私は、友だちと楽しくいることで、誰かに相談することで、頼ることで、抱えている孤独が偽物になってしまうと思っていた。それは人生楽しくやってる人の孤独は嘘だと言っているようなものだ。私にはこの孤独というか、この抱える問題しかないと思っていた。だからいつも深刻になってしまう。生きることさえ脅かしてくるこの問題に、立ち向かえていればいつも死にたくたってそれでいい、苦しむことでこの世で生きる権利を得ていたような気がする。だけど楽しんでもいいんだよ。なんにも悪いことしてない。自分が自分でしかないことのつらさを忘れるくらいの楽しい一瞬があっただろう。だから生きてこれたんだ。

友だちといることで得ることができた安心を、波紋のように広げていって、教室に居るのが楽になりたい。社会に存在することがもう少し楽になりたい。

今日はオンライン授業でグループワークがあった。コンピュータがグループを振り分け、ルーム7に追いやられた。グループワークはまだテーマが決まっていて話しやすい。けれど、間に割って入ることができない。わざとらしい相槌で存在を示す。それだけで終わってしまった。勇気すら出なかった。

みんな、ひとりひとりは怖くない。グループワークで話をして、あの人はこんなに気を使う人だったのか、とか、優しさに触れて、呆けてしまった。わたしは勝手に被害者になることがある。相手はなにも悪くないのに。不寛容なのはこっちだ。なにも見ようとしていなかった。失礼だった。

『手袋を買いに』の母さん狐のように、「ほんとうに人間はいいものかしら、ほんとうに人間はいいものかしら」となることが多い。こんなに優しさを受けているというのに!人が怖いのは分かるけれど、わたしも誰かの脅威になっているかもしれないし、無意識に加害しているし、傷つけているから、ちゃんと自覚したい。そこを引き受けて生きていくのよ。

いろいろ不安すぎて、扇風機に抱きついてしまった。