ぬくめる

日記です

ここのところずっと落ち込んでいて、生きる気力が湧いてこないというか、エンジンが故障しているような感じがあった。言葉にできないことが沢山あって、だから誰にも言えなくて、それがとても苦しい。誰かに知って欲しい気持ちもあったのだけれど、自分の存在を消したくて堪らなくて、言葉を残す気が起きなかった。

自分の承認欲求や表現欲求を、卑しいものだとして、徹底的に押さえつけてしまっていた。だからか、他人の承認欲求や表現も、受け取ることが苦しいときがあるというか、みんな何も言わないでくれ、と思ってしまうときがある。

承認欲求や表現欲求は、自分を苦しめるものでもあるけれど、生きていくうえで大切な、無視しちゃいけないものだ。それらの欲求は、きっと、大切にされたがっている自分自身の声だ。

存在をなかったことにしたくなるのは、これ以上自分の嫌なところを見たくないからで、これ以上間違いを犯したくないからで、誰かに影響すること、傷つけることが恐ろしいからで、自分に与えられた優しさに向き合うことができなくなってしまったからだ。

だけど生きていくなかで、傷つけることや傷つくことは当たり前で、優しくすること、優しくされることも、たぶん当たり前で、生きていてよかったと思えるくらい楽しいことはあるし、感動する瞬間は、たくさんたくさんあるのだ。どれだけ存在を消そうとしても、ちゃっかり感じてしまうのだ。そのちゃっかりさには失望するけれど、愛してもいるから、生きている。

いじけている。いままで自己表現ができなかった。表現してからの他人の反応を知ることができなかった。それは冷たいばかりじゃなくて、あたたかいものもあったはずだ。他者からの反応や、受け取ってくれたと感じること、もらった言葉、言ってよかったと思うこと、あれはお節介だったと思うこと、間違えたと思うことが、私は少なすぎるのかもしれない。間違えないでいるためには、何もしないでいることが一番いいからだ。

表現したいというか、もっと嘆きたいし、弱音を吐きたい。けれど弱音を吐いたら、弱音を吐けないでいる人がもっと苦しむような気がして何も言えなくなる。弱音を吐かない人も、弱音を吐く人も、立派だよ。考え方、価値観の違いだよ。どちらの生き方が尊いとか、崇高とか、ないよ。もっと間違っていいんだ。間違ったら、修正して、工夫を凝らして、表現を磨いていくんだ。自分にあった生き方を探すんだ。読んでくれた誰かが、自分(これを書いているわたしじゃなくて、読んでいるあなた自身)のことを語りたくなるように、書きたい。そうなるにはどうしたらいいんだろう。自分や誰かの口を閉ざしてしまうことが一番こわい。