ぬくめる

日記です

ヴィレッジヴァンガードを「ビンガーバレッジ」と言う母に笑ってしまった。

わざわざ部屋まで来て「20時にわらび餅食べるで」と勢いよく言ってきたり、「玄関の前に蛾が死んでた。……明るい場所で死ぬんやな」と、ぼそっと言ってくることに、笑ってしまう。

わたしはいろいろ変わりました。変わっていないところも沢山あるけれど。周りの人も変わった気がする。家族も友だちも順番に歳をとって、わたしは20歳になれました。生きていてよかった。

聞いてください!最近、わたしは人一倍ひとが怖いが、人一倍ひとと関わりたいと思っていることに、気がつきました。

人と関わりたいのも、人がめちゃくちゃ怖いのも、どちらも本当だ。恐怖vs欲求の戦いで、欲求は負け続けてきた。恐怖はものすごく強い。だけれど、これだけ負け続けながら、尚も消えない欲求は、めちゃくちゃ強いんじゃないか。と!

恐怖はたぶんなくならないし、たぶんなくさなくていい。人と関わりたい欲求もそうだ。なんというか、戦うんじゃなくて、とにかく話し合おうぜ。ここは恐怖がいってください、みたいに、譲り合おうぜ。どちらにも出る幕を与えよう。出る幕の少なかった楽しさや嬉しさにも、輝いてもらおう。そのためには死なないで。

できてないけど

生活するのも、人を大切にするのも、自分を大切にするのも、できていないが、自分を責めすぎず、無心でやっていく。まずは型からやっていこう。あとから心がついてくるかもしれない。

もう物語に憧れなくなった。焦ることもない。羨むことも、恨むこともない。

たぶんできるようになる。コツコツやっていたら、いつかできるようになる。私は話せるし、なにも感じていない、考えていないわけじゃない。好きなものがあるし、嫌いなものもある、人を傷つけたくなることもある、愛することがきっとできる。

人と話せない、上手く関われないとそこまで思わなくていいはずだ。ただ毎日を過ごせばいい。私はきっと、人との関わりの中で生きていたいから、関係を築きたいから、精神保健福祉士と演劇を選んだのだ。すぐ人との関わりから逃避したくなるけど、学校に行くことだって、演劇をすることだって、バイトを続けているのだって、私が選びつづけている。それは私だけでできたことではない。環境や人に恵まれている。だからこそ、人と関わることを諦めない。

もう、人と関わって生きていればそれでいい。よくやっている。人を好いて、嫌って、好かれて、嫌われて、そのほかの関係も、味わいたい。

苦しい。本当に苦しい。周りの人は悪くない。ただ迷っている。どう生きていけばいいか分からない。自己主張の仕方が下手くそだ。1人でいることに慣れすぎて、多人数・集団になるとどうすればいいのか分からなくなる。当たり前だ。慣れてないんだ。大丈夫。いつかできるようになる。もう、頑張れ。苦しいだろうけど、模索しよう。そんな気力もなくなったら、休んでくれ。なくなるまえに、休んでくれ。清潔な布団で寝てくれ。お風呂に入る気力もないだろうけど、とにかく清潔を守れ。生きてくれ。生きようとしてくれ。もうしんどいけどさ。もうしんどいんだよ。しんどいけど、死ぬわけにはいかないんだよ。死なないために頑張ってるんだよ。その努力を裏切っちゃだめなんだよ。世の中が大変なときに、なんてわたしは。いや、わたしは大変であってもいいんだよ。

自分でも何でブログを分けることにしたのか分かっていないのですが、もしよろしければhttps://gannbaritai.hatenablog.jp/を、ときどき見ていただけませんか。

社会や人に対する不信感や恐怖を、どう扱っていくか考えています。ひとりで認知行動療法(なんちゃってではありますが…)をやっているみたいな感じです。

もちろん見なくてもよいです。人は自由…。

暗いことを書いたり、やけに前向きになったりしています。報われたくて頑張っています。この姿を見せて、誰かを励ましたいとか、頑張ってほしいとか、思っていないし、一生思いませんように。自分のためだけに書いていますが、ひとりでは頑張れず…!

がんばれワン太郎

これは、高校の家庭科の授業でつくったパペット人形で、名前はワン太郎です。

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ブログのアイコン用にちゃんとした写真が欲しく、証明写真で撮った。撮り直しは一度しかできず、真顔の自分が半分映り込んでいるのと、このドアップしか撮れなかった。シビアな時間制限と、撮影にかかる800円のプレッシャーがあった。

ブログを整理した。ブログを始めたばかりのころは、ただ文章を書くのが好きで、どれだけ時間を掛けてもいい文章でなら、だれかを楽しませることができるかもしれないと思っていた。最近は文章もどうでもよくなっていた。文章が上手くなりたい、楽しませたい、と思うことがなかった。それは文章だけに限らず、人と接するときもそうだった。記憶に残らなくていい。仲良くなりたい、あの人の何かに引っかかりたい、笑わせたい、楽しんでほしいとか、諦めていた。

つまらなくておどおどしていて、相手にプラスになることができないから、体育でペアになった人には、いつも申し訳なかった。隣の席の人にも、バイト先の人にも、一緒にいてくれる友だちにも。

それでも生きてこられたのは、こんな自分を面白がってくれた人、愛してくれた人がいたからだ。つまらないと切り捨てられた人が、どれだけ魅力的であるか、知っている。自分の未熟さも愛せてしまったから、克服しようと躍起になることは少なくなった。

だけれど自分のつまらなさに絶望する。他人の魅力や面白さを憎み、避けて、諦めて、つまらないからさ、と開き直りもできず、生きる気力がなくなって、でも愛されているのは知っていて、私を愛したことをきれいさっぱり忘れてくださいと思って、透明人間になりたくなった。

対人援助職を目指していることが、今の私を前向きにさせている。相手に「上手く話せない」とか「うまく伝えられない、伝わらない」「自分はつまらないやつだ」と思わせたくない。コミュニケーションが上手くなりたい。相手のニーズに対応できるようになりたい。平気な状態で人と話せたら、きっと楽しい気がする。

未熟さを恨み続けている人、未熟さをどうにかしようと頑張っている人がいると思う。努力して成熟した人もいる。私も捨てないといけないけれど、自分らしさはつまらなさと未熟さだけだと思ってきたから、なんだか、ややこしい。愛着があって手放しがたい。でも、未熟な大人と未熟な子ども(わたし)で良くないことが起きてしまったから、この未熟さをいつまでも持っているわけにはいかない。未熟さで人を傷つけてしまう。それも悪意なく。絶対に大人になる。

やっぱり、好きな人たちと楽しく喋りたい。そうできるようになりたい。つまらないと切り捨てられたものが、どれだけ素晴らしいか、語っていく。その語りで、誰かを立ち止ませられたらいい。そのために文章が上手くなりたい、魅力的になりたい。カウンセリングの先生に、「いつかそのつまらないとか、未熟と言い表しているものの一部だけでもいいから、自分の視点だとか、才能と言えたらいいな。上手く言えないんだけど……」と言ってくれた。

新しいブログアイコンどうですか。ワン太郎、かわいいでしょう。母は「ダウンタウンの浜ちゃんに似てるな」と言っていました。ワン太郎でお話をつくる課題があって、そのお話の題名は、「ワン太郎、はじめて電車に乗る」にしました。がんばれワン太郎。がんばってるワン太郎。社会に踏み出すワン太郎。あぁ社会は怖いけれど、やさしい人は必ずいるよ。

4月5日

入学式。スーツを着るのはこれで3回目だ。母が「すこし肌寒いだろうから」と、背中にホッカイロを貼ってくれた。

外は雨が上がったばかりで、風で髪が旗のようにばためく。母の言う通り、肌寒かった。会場まで電車で向かう。座席にすわって、本を開いた。少年アヤちゃんの『ぼくは本当にいるのさ』

高級ホテルの宴会場で入学式は挙行される。受付で検温と消毒を済ませ、会場に入った。座面も背もたれもふかふかの椅子が、等間隔で並んでいる。理事長やらが出てくるのであろう中央のステージには金屏風。金屏風の左右には大きなモニター。

式がはじまり、理事長学校長の男性方が壮大な音楽とともに入場する。主役かっての!

なんだかすべてが借り物のような式だった。拍手さえ借りてきたものみたいだった。有難いはずのお言葉も、モニターいっぱいにうつる表情も、なにも感じるものがなかった。ただ未来の話をされたとき、その未来に自分がいない気がしてならなかった。これから勉強するというのに、私には生きる気も、この世に存在する気もなかった。息をするたび胸が痛む。

わたしはどうしてこうなったのか。ヘロヘロで空っぽ。はやく家に帰って、昨日の晩御飯の残りを食べたい。

母が「上手くできた」と喜んでいた時雨煮を食べようと、冷蔵庫を開けた。ラップがかかったお皿を手にとると、それは時雨煮ではなく、いちごのロールケーキとマカロン2つだった。ラップの上に付箋が貼ってあった。「入学おめでとう」

2月13日 海

父と母と私で海に行った。晴れていてあたたかい。犬や人やロードバイクとすれ違う。海が人を穏やかにさせている。

父は磯辺をぐんぐん進み、水際にしゃがみ込んで、水中をじっと見た。父がいるところまでいって、魚を探した。魚の姿は見つからなかった。父は「魚おらんな」と呟いたあと、ヤドカリがたくさんいることを教えてくれた。

ぼどんぼとんと音がして、そっちを見ると小さい男の子ふたりが、海に大きい石を投げ込んでいた。いたずらをしているみたいに楽しそうだった。

また音がした。「ボラ、ボラやぞ」と父が声を上げた。「あの子らがあんな遠くに投げれるわけないから、見てみ」と指をさした。魚が跳ねた。魚からしては何ともないのだろうが、退屈なんだろ俺を見ろよという感じがして、パフォーマンスかよと思った。なんだか分からないがその魚に本当にがっかりした。自分が3歳くらいの時だと手を叩いて喜んだのだろうか。はしゃいだほうがよいだろうかとか、いま自分は何歳だっけ、とか思った。最後に親と海を見たのは小学6年生だろうか。あの頃に受けた父と母の眼差しを思い出し、気恥ずかしくてそわそわした。

昼間の海は、人もまじまじと見てしまう。父親とボール遊びをする2歳くらいの男の子。散歩する老夫婦。車椅子の人。読書をする人。犬。ロードバイク。ベビーカー。子どもがつくった山。赤いスコップや黄色のバケツ、小さいおもちゃが山を囲んでいた。カップルがつくった山もあった。砂はあたたかいだろう。

これまで受けたあのやさしい眼差しにたいして、感謝をきちんと伝えたほうがよいだろうかと、帰りの車で考えていた。卒業を前にして、成人をまえにして、自分はまだまだ子どもだし、親との生活はまだまだつづく。

それでいいんだ

テスト最終日だった。一教科のみで、コミュ英IIだった。テスト範囲から満遍なく出題された。授業プリントの細部に至るまで勉強していないと点数は取れないだろう。お情け問題が無かった。先生、本気だ、と思った。胸が熱くなった。舐め腐って勉強してこなかったので、解けなかった。マスクしていることをいいことに、下唇を思い切り噛んで悔しさを露わにした。なんで?

「英語上手くなりたい」と思った。「何て書いてるか読めるようになりたい」と思った。上手くなりたいってなんなんだ。何て書いてるかは授業ちゃんと受けてたら分かるんだよ。先生の熱い思いに応えたかった。ちゃんと授業を受け、勉強した者のみが挑むことのできる、先生との真剣バトルを、わたしも繰り広げかった。わたしが受けたのは本当にテストだっただろうか。アンケートをしているみたいに、手応えがなかった。同じテストを受けたかおるちゃんと、教室を出た後すぐに「本気(マジ)だったね」と話した。

帰りにかおるちゃんとスタバに行って、抹茶×抹茶ホワイトチョコレートを飲んだ。かおるちゃんは抹茶×抹茶ホワイトチョコレートフラペチーノを頼んだ。ツイッターをやめた話をした。かおるちゃんはツイッターをしているが、本当に見たい人のツイート通知をONにして、通知が来たらツイッターでツイート見るみたいだ。タイムラインは一切見ないそうだ。

「ナイスだよ」と言われた。ナイスな友だちだわ、と思った。かおるちゃんの、食べづらいものに苦戦しながら食べるところが好きだ。フラペチーノ、飲みづらかったらしい。飲みづらさを報告してくれるところが好きだ。道を歩いていると、自転車や車がいないか立ち止まって確認するところが好きだ。後ろに車がいないか何度も確認するところが好きだ。車はまだ離れたところにいて、ぜんぜん通れるのに、車だ、と言って通らないところが好きだ。だめだめになってしまわないよう自分でコントロールしようと努めているところが好きだ。ひとりで好きな場所やイベントに出かけるところが好きだ。バイトの制服をまだ返せていないところも好きだ。スマホ音ゲーを2、3時間するところが好きだ。スタバの店内1時間までを、ちゃんと守るところが好きだ。

専門学校に行って、友だちができるか、気が合わなくともやっていけるか不安だった。かおるちゃんがいるから大丈夫と思った。友だちができなくても、かおるちゃんがいるから大丈夫、の大丈夫ではなく、気が合う人がいない、友だちができないと悩んでいたら、かおるちゃんは励ましてくれるだろうから、大丈夫だろう、の大丈夫だ。依存をしないように気をつけよう。重くのしかからないように気をつけよう。難しい。難しい。誠実を第一に。

かおるちゃんは、夏休みにいきなりテンションの高い手紙を送ったら、それ以上のテンションの手紙を送ってくれた人で、一緒に〇〇しようよ、とかはあまり言わないけど、記念にプリクラ撮ろうよとか、ツーショット撮ろうとか言うような人で、わたしは、本当に嬉しくなる。「校外学習の日に好きなアイドルのラジオの生放送があるから、わたしずっと片耳にイヤホンつけてるかもしれない」と言ったのは、本当に愛おしかった。どうしても聞きたいのだろうな。もうそんなら両耳つけたらいいのに。でもそれでは少し寂しいな。わたしはまじまじと白くまを見て、可愛いなーってつぶやいて、片耳にイヤホンつけたかおるちゃんは、ただ風景として白くまを見て、白くまだなーってちょっと思えばそれでいい。それぞれでそれぞれの楽しいことをしていたら、楽しいよ。それでいいんだ、わたしたち。