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日記です

ツイッターで、たくさんの人の生活を知れるようになった。ツイートは生活のほんの一部を切り取ったもので、嘘かもしれないけれど、全く異なるいくつもの生活が同時進行していることに感動する。わたしのタイムラインには、子どもの成長記録とか、精神薬をポリポリ食べているとか、先生の萌えエピソードとか、いろんなことが流れている。見逃したくない。流れつづけるそうめんをガッと箸で留める、目の前を流れゆくお寿司たちを一皿残らず取る、みたいな感じで、他人の生活に対して、ツイートに対して、執着している。

電車の窓に流れていく景色を、1秒後には思い出せなくなるのが悔しくなる。さまざまな家、団地、屋根の色、洗濯物を干す人、観葉植物に水をやる人、赤の自転車、傘をささずに走る人、他人の、名前も知らない人たちの生活に触れられるような気がするから、ツイッターを眺めてしまうのかもしれない。

どんなに頑張ってもそうめんを取りこぼしてしまうことや、テーブルに埋まっていく大量のお寿司たちを目にして苦しくなるのは、すべてを食べつくすことができないから。それなら取らなければいい。けれど全部食べなきゃいけない気がしてしまう。大好物も、食べると吐き気がするものも。女子高生の飛び降り自殺動画も、新宿の殺人未遂現場写真も。

深夜、「死にたい」と検索する、膨大なツイート、覗き見する、しんどそうで、なんでこんなに世の中には死にそうにつらい人が多いんだと、絶句する。

想像できなかったこと、想像もしなかったことが、ツイッターには流れている。想像が追いつかない、想像しようとしたことが、もうツイッターに溢れている、目に見えてしまう、でも本当のことも紛れているから目を塞ぐわけにもいかない、本を読んでいればいいのだろうか、新書とか、あとテレビとか、でもめざましテレビのJK特集なんて的外れだった、ツイッターはもうわたしの一部になっているのか、ツイッターしていない人は、時代遅れになったりしないのだろうか、いや、もう毒されすぎだ!!

わたしは盗み聞きした良い言葉をメモして、自分のものにした気になったり、ツイートをいいねして、その生活に自分も関与したように思ったり、要は他人の生活を覗き見るのが好きなのだ。だから日記も小説も演劇も好きなんだろう。小説や演劇は架空のものだから良いとして、実在する他人の生活を自分に取り込んでいくのは、どうなんだろう。自分と他人は違う。他人の生活や苦しみや痛みを、ツイッターだからといって勝手に覗き込んで、自己満足なんじゃないか。電車の窓からの風景をぼーっと眺めるのもいいのに。そんな交通量調査みたいに、数取器をカチカチ鳴らしつづけなくても。

いろいろな人を知りたいのだと思う。名前を呼びたい。けど、名前を知ることができないことのほうが多いから、虚しいのだ。全人類をひとりひとり知ることはできない。だから想像するのか。すべての苦しみを知ることはできないから、祈るのか。だから、ツイッターで追い求めてしまうのか。諦めがつかないなぁ、欲張りだなぁ。